映画『メッセージ』ヘプタポッド言語(ロゴグラム):構造と時間認識への影響
はじめに:『メッセージ』とヘプタポッドの言語
ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督による2016年の映画『メッセージ』(原作はテッド・チャン作『あなたの人生の物語』)は、異星人とのコンタクトを主題とするSF作品です。この作品の核心的な要素の一つが、異星人である「ヘプタポッド」が使用する独特な言語です。地球に飛来したヘプタポッドとの対話を通して、言語学者の主人公ルイーズ・バンクスは彼らの言語構造を解明しようと試みます。
ヘプタポッドの言語は、単なる意思疎通の手段ではなく、彼らの非線形な時間認識と深く結びついています。この記事では、このヘプタポッド言語がどのように設定されているのか、その構造、そしてそれがヘプタポッドの文化や思考にどう影響を与えているのかを詳細に解説します。
ヘプタポッド言語の概要
ヘプタポッドは、その名の通り7本の肢を持つ地球外生命体です。彼らは二つの言語を持っています。一つは「ヘプタポッドA」と呼ばれる話し言葉ですが、人間の音声器官では再現が困難であり、作中では主に書き言葉である「ヘプタポッドB」に焦点が当てられます。
ヘプタポッドBは、物語の鍵を握る書き言葉であり、「ロゴグラム」と呼ばれる独自の記号体系を持っています。地球外生命体の言語でありながら、単なるSF的なガジェットではなく、言語学的な考察に深く基づいた設定がなされている点が、この言語の大きな特徴です。
文字体系(ロゴグラム)
ヘプタポッドBは、円形あるいは不定形の複雑な図形であるロゴグラムで構成されます。これはアルファベットのような文字の羅列ではなく、一つのロゴグラムが単語や句、あるいは文全体のような大きな意味単位を表す表意文字(ideogram / logogram)に近い性質を持ちます。
- 形状の非線形性: ロゴグラムは線形に並べられるのではなく、単一の複雑な図形として提示されます。一つの図形の中に複数の要素が組み込まれており、それぞれの要素が意味の断片を持ち、全体として完全な意味を構成します。
- 意味の全体性: ロゴグラムは構成要素を順序通りに読み解くのではなく、図形全体を一気に認識することで意味を把握します。これは、線形的な思考や時間認識とは異なる方法で情報を処理していることを示唆しています。
- 読み書きの方向: 円形であるため、開始点や方向という概念がありません。これは、時間や因果律といった線形的な思考に囚われないヘプタポッドの性質を反映していると考えられます。
劇中では、これらのロゴグラムがインクのような物質で瞬時に描き出される様子が描かれています。
音韻体系(ヘプタポッドA)
ヘプタポッドには話し言葉「ヘプタポッドA」も存在しますが、その音韻体系は人間の言語とは大きく異なります。作中ではヘプタポッドが発する独特のクリック音や唸り声のような音が聞かれますが、これは地球上の生命体とは異なる発声器官や聴覚を持つ彼らの特性を反映したものです。
ヘプタポッドAの正確な音韻体系や構造は作中で詳細に解説されていませんが、ルイーズが彼らの話し言葉を聞き取る際に困難を伴う描写があり、人間の言語音とはかけ離れたものであることが示唆されています。言語学的な分析の中心は、やはり書き言葉であるヘプタポッドBに置かれています。
文法(ロゴグラムの構成)
ヘプタポッドBの文法は、人間言語の文法規則とは根本的に異なります。主語、述語、目的語といった線形的な要素の並び順や、時制、格変化といった概念が従来の言語学的な枠組みでは捉えにくい構造をしています。
- 非線形構造: ロゴグラムは複数の構成要素が組み合わさってできていますが、これらの要素は特定の順序で配置されるのではなく、図形の中に一体化しています。意味は要素間の空間的な配置や関係性によって決定されると考えられます。
- 時制の概念: ヘプタポッドBには、過去、現在、未来といった時制を示す明確な文法形式が存在しないか、あるいはそれらを同時に内包する形で表現されます。これは、彼らが時間を線形的にではなく、過去、現在、未来を同時に知覚する存在であることと強く関連しています。
- 意味の構築: 一つのロゴグラムは、特定の概念や文全体を表現します。例えば、「来る」「到着」「七本の肢を持つ生き物」「我々」といった要素が組み合わさって、「七本の肢を持つ我々が到着した」といった文全体を一つのロゴグラムで表す、といったイメージです。意味は要素の足し算ではなく、ロゴグラム全体の構成から emergent(創発)的に生まれると解釈できます。
この非線形的な文法構造は、ヘプタポッドの時間非線形知覚、すなわち過去・現在・未来を同時に「経験」しているという設定に基づいています。彼らにとっては、ある出来事の原因と結果が同時に存在しうるため、人間の言語のように原因から結果へという線形的な構造を持つ必要がないのです。
言語と話者の文化・思想との関連性
ヘプタポッド言語の最も重要な側面は、それが彼らの知覚や文化、思想と不可分であるという点です。作品の根底には「サピア=ウォーフの仮説」(言語が人間の思考や世界認識に影響を与えるという仮説)が強く流れています。
- 時間非線形知覚: ヘプタポッドは未来を知っており、それは「記憶」と同じように彼らにとって既定のものです。彼らは常に未来を知った上で行動を選択しますが、それは運命論的な諦めではなく、全ての時間を通して自己の役割を全うするという行為として描かれます。彼らの言語構造、特に時制の非存在やロゴグラムの全体的な意味構成は、この時間非線形知覚を反映しています。
- 言語学習と思考の変化: 主人公ルイーズがヘプタポッドBを習得するにつれて、彼女自身の時間認識が変化し始めます。未来の出来事(特に娘ハンナの人生)が断片的な「予知」としてではなく、過去の記憶と同じような感覚で経験されるようになります。これは、言語を学ぶことが単にコミュニケーション能力を得るだけでなく、思考様式や世界の見方そのものを変容させるという、サピア=ウォーフ仮説を極限まで推し進めた描写です。
- 意思疎通の目的: ヘプタポッドが地球に言語を伝える目的は、単なる情報の提供や技術供与ではなく、彼らの時間非線形知覚と思考様式を共有すること、それによって人類が未来の困難(作中での「贈り物」の真の目的)に対処できるようになることであると示唆されます。言語そのものが「贈り物」なのです。
作中での具体的な使用例
作中では、ルイーズがヘプタポッドとの対話を通して様々なロゴグラムの意味を解読していくプロセスが描かれます。初期には個々の要素や単純な概念(例:「人間」「我々」)から始め、次第に複雑な概念や文(例:「我々の目的は助けること」「武器を使う」)を表すロゴグラムへと進みます。
例えば、「武器」というロゴグラムは、その形状の中に複数の要素が組み合わされていますが、それは破壊的な道具という意味だけでなく、「道具」「技術」「贈り物」といった複数の解釈が可能であることから、異星人との誤解や人類間の対立が生じる原因となります。この解釈の多義性も、ロゴグラムが線形的な単語の組み合わせではなく、全体として意味を持つことに関連している可能性があります。
言語学的な位置づけ
ヘプタポッドBは、現実世界の言語学的な分類に直接当てはめるのは困難です。
- 文字体系: 表意文字またはロゴグラムに分類されます。漢字のようなものに似ていますが、構成要素の並び順に厳格なルールがあるわけではなく、図形全体で意味を構成する点で異なります。
- 文法類型: 線形的な語順(SOV, SVOなど)を持つどの類型にも該当しません。屈折語や膠着語といった形態論的な分類とも異なり、文法関係は形態変化や語順ではなく、ロゴグラム内部の構造や要素間の関係性によって表現されます。強いて言えば、単一の形態素が文や句全体を表す「多総合語(polysynthetic language)」のような性質の一部を持ちますが、それはロゴグラムという文字体系と結びついた独特な形態であり、一般的な多総合語の定義からは外れます。
最も特徴的なのは、その非線形性であり、現実世界の多くの言語が持つ線形性(時間的な順序や空間的な並び)とは対照的です。これは、ヘプタポッドの知覚の根本的な違いから生まれるものであり、現実世界の言語学的な仮説(特にサピア=ウォーフの仮説)に対する壮大な思考実験として機能しています。
まとめ
映画『メッセージ』に登場するヘプタポッド言語、特に書き言葉であるヘプタポッドBは、単なる架空の言語設定を超え、言語学的な概念、特にサピア=ウォーフの仮説と時間認識の関連性を深く掘り下げた非常に興味深い存在です。
円形の非線形ロゴグラムという独特な文字体系、人間言語とは根本的に異なる非線形な文法構造は、ヘプタポッドの過去、現在、未来を同時に知覚する時間非線形知覚を色濃く反映しています。そして、この言語を学ぶプロセスそのものが、人間の知覚や思考様式を変容させるという描写は、言語の持つ力の可能性を示唆しています。
ヘプタポッド言語は、私たちが普段何気なく使っている言語がいかに線形的で時間的な制約を受けているかを再認識させると同時に、異なる知覚を持つ存在とのコミュニケーションがいかに困難で、同時に変革をもたらしうるものであるかを示しています。SF作品における架空言語の可能性を最大限に引き出した、設定としても文学としても優れた例と言えるでしょう。