SF架空言語図鑑

エクスパンス パサーング(ベルター・クレオール):宇宙植民地が育んだクレオール言語の構造と文化

Tags: エクスパンス, パサーング, ベルター・クレオール, 架空言語, SF, クレオール言語

エクスパンス パサーング(ベルター・クレオール):概要

SFシリーズ『エクスパンス』は、太陽系が人類の活動圏となった未来を描いています。地球、火星、そして小惑星帯(ベルト)に居住する人々の間で複雑な政治的・社会的な対立が繰り広げられます。この作品世界において、特に小惑星帯に住む人々、通称「ベルター(Belters)」が使用する独特な言語が「パサーング(Lang Belta)」、または言語学的には「ベルター・クレオール(Belter Creole)」と呼ばれています。

パサーングは、地球や火星から来た様々な言語が混ざり合い、宇宙空間での生活という特殊な環境に適応する中で自然発生的に形成されたクレオール言語です。これは単なるスラングや訛りではなく、独自の文法構造と語彙を持つ、ベルターたちのアイデンティティと文化の象徴ともいえる言語です。

誕生背景と話者

パサーングは、小惑星帯の開発が始まった初期の時代に起源を持ちます。地球や火星から集まった様々な国の移民労働者たちが、コミュニケーションのために各自の母語(英語、フランス語、スペイン語、イタリア語、ドイツ語、ロシア語、中国語、日本語など)を混ぜ合わせて使用したことから始まりました。このような多言語接触環境では、まず簡単なピジン言語が生まれ、それが世代を経て母語として習得される過程で、より複雑で体系的な構造を持つクレオール言語へと発展していくのが一般的です。パサーングもこのプロセスを経て形成されたと考えられています。

主な話者は小惑星帯に居住するベルターたちです。彼らは故郷を持たず、採掘ステーションや居住ステーション、そして宇宙船の中で生涯を送ることが多く、地球や火星の人々とは異なる独自の文化を育んでいます。パサーングはベルター社会の共通語として機能しており、特にアウター・プラネッツ同盟(OPA)のようなベルターの組織内でのコミュニケーションや、地球・火星の人々に対する排他的なコミュニケーション手段として使用されることもあります。

文字体系

パサーング独自の正式な文字体系は設定されていません。作中や関連資料では、主にラテン文字を使用して表記されることが一般的です。ただし、発音を反映するために、元になった言語の表記規則や独自の慣習が混在している場合があります。例えば、一部の音は英語以外の言語の表記法に近い形で表現されることがあります。

音韻体系

パサーングの音韻は、その起源が多岐にわたるため非常に多様です。英語を基盤としつつも、フランス語の鼻母音、スペイン語の巻き舌のR、ドイツ語の硬い子音、中国語の声調(簡略化されているか、失われていることが多い)など、様々な言語の特徴が混ざり合っています。

特徴的な点として、以下のようなものが挙げられます。

公式なIPA表記や厳密な音韻ルールに関する詳細は限定的ですが、作中のセリフからは、地球の標準語話者にとっては聞き慣れない、独特な響きを持つ言語として描かれています。

文法

パサーングの文法は、クレオール言語の典型的な特徴を多く持ち合わせています。元の言語の複雑な活用や不規則性が簡略化され、比較的規則的で固定された構造を持つ傾向があります。

主要な特徴は以下の通りです。

例: * Mi go setara (I will start/I am going to start) - 未来/進行の表現 * Yu na kom (You are not them) - 否定文 * Lang Belta fo beltalowda (The Belter Language for Belter people) - 所有/関係の表現

これらの特徴は、複数の異なる言語の要素が効率的に組み合わされ、複雑な文法規則を簡略化して共通の理解を図るという、クレオール言語の発達プロセスを示しています。

語彙

パサーングの語彙は非常に多様で、元になった様々な地球言語からの借用語が多数含まれています。特に英語からの語彙が多いですが、フランス語、スペイン語、イタリア語、ドイツ語、ロシア語、中国語などからも語彙が取り入れられています。これらの借用語は、パサーングの音韻体系に合わせて発音が変化したり、元の意味から派生したりしていることがあります。

また、ベルター特有の宇宙空間での生活や文化に関連する独自の語彙も多く存在します。

代表的な単語やフレーズ:

語彙の構成は、多言語接触による借用が核となりつつ、ベルターの具体的な生活や人間関係、宇宙環境に関連する語彙が発展している特徴が見られます。

言語と文化・思想との関連性

パサーングは、ベルターの独特な文化とアイデンティティに深く根ざしています。

  1. アイデンティティの確立: 地球や火星からの圧迫や差別に対抗し、ベルターとしての独自の文化を築く上で、パサーングは重要な unifying force(結束の力)となりました。この言語を話すことは、「自分たちはベルターである」という意識を強化します。
  2. 連帯感と排他性: beltalowda のような言葉に象徴されるように、パサーングはベルター同士の強い連帯感を生み出します。同時に、この言語は地球人や火星人には理解しにくいため、外部の人間に対する排他性の壁としても機能します。重要な情報や感情をベルターの仲間内だけで共有する際に役立ちます。
  3. 環境への適応: 宇宙空間での低重力環境や、宇宙船・ステーションでの生活は、ベルターの身体や心理に影響を与えています。これが直接言語構造に反映されているかは不明確ですが、宇宙船の部品名や宇宙空間特有の現象を表す語彙が豊富であることは想像に難くありません。
  4. 歴史的背景: パサーングが複数の労働者言語から生まれたという背景は、ベルターが搾取される労働者階級として始まった歴史を反映しています。彼らの苦難や反抗の精神が、言語の中に込められている可能性があります。

パサーングは、単なるコミュニケーションツールではなく、ベルターが厳しい環境の中で生き抜き、独自の文化と誇りを守るための重要な要素なのです。

作中での具体的な使用例

TVシリーズ『エクスパンス』では、多くのベルターキャラクターがパサーングを使用しています。特に中心的なキャラクターであるカミーナ・ドラマーやクラエス・アッシュフォードなどは、流暢なパサーング話者として描かれています。

例: * Na po boy. Beratna. (Not poor boy. Brother.) - 「かわいそうじゃない。俺の兄弟だ。」(同情を否定し、仲間であることを強調する場面など) * We go setara fo da sasa. (We will start for the knowing.) - 「私たちは理解するために始める。」または「知識を得るために出発する。」 * Mi na imalowda. (I am not an Inner.) - 「私は内惑星の人間ではない。」(自分がベルターであること、地球や火星とは異なる存在であることを明確にする表現)

これらの例からも、パサーングが単語の羅列ではなく、独自の文法規則と語彙を持つ機能的な言語であることが分かります。文脈によって、丁寧語、命令形、感嘆など、様々なニュアンスが表現されます。

言語学的な分類

パサーングは、言語学的には「クレオール言語(Creole)」に分類されます。クレオール言語は、複数の異なる言語が接触した結果、最初にピジン言語(簡略化された混成語で、主に貿易などの限定的なコミュニケーションに使用される)が生まれ、その後そのピジンが次の世代の母語として話されるようになる過程で、語彙や文法が拡張・複雑化して成立した言語です。

パサーングの場合、英語、フランス語、スペイン語、イタリア語、ドイツ語、ロシア語、中国語などが基層言語または上層言語として影響を与え合って成立したと考えられます。これは現実世界のジャマイカ・クレオールやハイチ・クレオールなどと同様の言語形成プロセスを経ていると言えます。

文法構造としては、屈折が少なく、語順や機能語に頼る傾向があるため、孤立語や分析的言語の特徴を一部持つと言えます。基本的な語順はSVOですが、これもクレオール言語でよく見られる特徴の一つです。

まとめ

『エクスパンス』に登場するパサーング(ベルター・クレオール)は、単なる物語の飾りではなく、作品世界におけるベルターの歴史、文化、アイデンティティを深く反映した架空言語です。複数の地球言語が混ざり合い、宇宙空間という特殊な環境下で自然発生的に形成されたこのクレオール言語は、独自の音韻、文法、語彙体系を持ち、ベルターたちの連帯感を育み、外部との境界線を引く役割を果たしています。

パサーングの存在は、『エクスパンス』世界のリアリティを高めるだけでなく、現実世界の言語接触やクレオール言語の形成プロセスについても示唆を与えてくれます。言語がどのように社会や文化、そして人間のアイデンティティと結びついているのかを考える上で、パサーングはSF作品における架空言語の興味深い事例と言えるでしょう。