『闇の左手』ゲセン語:ジェンダーを持たない文化が反映された言語構造
はじめに:『闇の左手』とゲセン語の概要
アーシュラ・K・ル=グウィンの代表作であるSF小説『闇の左手』(The Left Hand of Darkness, 1969年)は、人類が銀河各地へ拡散し、異星の文明と接触する「ヘイン・サイクル」シリーズの一つです。この作品の舞台となる惑星ケムナーに住むゲセン人は、年間周期で不定の状態と性が発現する「ケメル」という特異な性周期を持つ両性具有の種族です。
地球から派遣された特使、ゲンリー・アイが遭遇するゲセン社会の文化や慣習は、その特異な生理によって深く形作られています。言語もまた、彼らの文化、特にジェンダーが存在しないという根本的な特性を強く反映しています。ゲセン語そのものの文法体系や音韻に関する詳細な言語学的設定は作品中で綿密に構築されているわけではありませんが、その語彙や特定の表現、そして最も特徴的な代名詞のシステムは、ゲセン社会のあり方を理解する上で極めて重要な要素となっています。本稿では、このゲセン人の言語が、いかに彼らの文化や思想と結びついているのか、特にジェンダーの非存在が言語構造に与える影響に焦点を当てて解説します。
ゲセン社会と文化の特徴:ジェンダーの非存在とケメル
ゲセン人は、成人期を通じてほぼ連続的に両性具有の状態であり、性行動が可能な「ケメル」と呼ばれる期間にのみ、男性または女性の性を持つようになります。しかし、この性も一時的であり、特定の一方として固定されることはありません。この性周期と両性具有という特徴は、彼らの社会構造、人間関係、権力システムに大きな影響を与えています。
ジェンダーによる役割分担や固定観念が存在しないため、社会的なヒエラルキーや権力構造は、個人の能力や立場、親族関係に基づいて形成されます。また、彼らにとって「性別」は一時的な生理現象に過ぎず、人間の本質を規定するものではありません。この根本的な文化的特徴が、ゲセン語の最も顕著な特徴の一つ、すなわちジェンダーを示す代名詞の欠如に繋がっています。
「ケメル」という概念は、ゲセン社会の生理的基盤であるだけでなく、文化的・心理的な概念でもあります。ケメル期に発現する強い情動や欲望は、彼らの芸術や詩、人間関係に影響を与えています。また、作品中で頻繁に言及される「ケメル」と対比される「レムペン」という概念は、「ケメル」期の情動的な真実や直接的な感情表現に対し、「レムペン」は日常的な抑制や建前、遠回しな表現を指します。この対比は、ゲセン人のコミュニケーションスタイルや真実に対する態度にも影響を与えています。
言語構造への文化の影響
ゲセン語に関する作品中の描写は、厳密な言語学的な規則体系よりも、その語彙や特定の表現が文化をいかに反映しているかに重きが置かれています。特に以下の点がゲセン社会の特異性を如実に示しています。
代名詞体系:ジェンダー代名詞の欠如
ゲセン語における最も注目すべき点は、ジェンダーを示す一人称または三人称代名詞が存在しないことです。これは、彼らが「男性」または「女性」として固定的に存在しないという生理的・文化的現実を直接反映しています。日本語には明確なジェンダー代名詞(「彼」「彼女」)が存在しますが、ゲセン語にはこれに相当する区別がないため、主人公ゲンリー・アイは、彼らの言葉を地球の言語に翻訳する際に大きな困難に直面します。
例えば、英語の "he", "she", "it" のような区分がなく、日本語の「あの人」や「その方」のような、ジェンダーを特定しない三人称の呼び方が基本となります。ゲンリーはゲセン人を指す際に便宜的に "he" を用いますが、これはあくまで地球側の言語の制約によるものであり、ゲセン語の本来の性質とは異なります。この代名詞の欠如は、ゲセン人の思考様式や世界認識に深く根差しており、地球人であるゲンリーがゲセン人を理解する上で最も障壁となる点の一つとして描かれています。
語彙:文化的重要語彙(ケメル、レムペンなど)
ゲセン語には、彼らの文化や生理、歴史に深く根差した固有名詞や概念語が多く存在します。
- ケメル (kemmer): ゲセン人の性周期における、繁殖可能な時期。生理的な現象であると同時に、強い情動を伴う期間であり、文学や芸術の主題ともなります。
- レムペン (rempen): 日常生活における抑制、建前、遠回しな言動。特に政治的な駆け引きや交渉において重要な概念となります。
- シフ (shif): ケメル期に特定の性を持つ相手との間に生まれる、強く、しばしば一生続く関係。単なる夫婦関係ではなく、深く、多層的な結びつきを指します。
- ゴス (gos): 契約、約束、または誓約。社会的な信頼の基盤となる重要な概念です。
これらの語彙は、単なる単語としてではなく、それぞれがゲセン社会の特定の側面、価値観、関係性を内包しています。特に「ケメル」と「レムペン」の対比は、ゲセン人のコミュニケーションや感情表現のスタイルを理解する鍵となります。
親族呼称
ゲセン社会では、親族関係も私たちの社会とは異なります。両親はどちらも子供を産む可能性があるため、親族呼称も私たちの知る「父」「母」といったジェンダーで分かれたものではなく、機能や立場に基づいた名称が使用される可能性があります。作品中には具体的な呼称体系の詳細なリストはありませんが、子供が両親の両方から生まれうるという事実は、親族関係の呼び方や認識に影響を与えていることが示唆されます。
文字体系と記録文化
作品中でゲセン人の文字体系に関する詳細な描写は限定的です。重要な文書(例:憲章など)は存在し、読み書きの能力も一般的なものとして描かれていますが、文字の具体的な形やシステムについての解説はありません。しかし、ゲセン社会には口頭伝承や物語が文化的に重要な役割を果たしており、特に予言師による「シフギリア」と呼ばれる予測は、彼らの思想や歴史観に深く根差しています。文字による記録だけでなく、口承文化も重要なコミュニケーション手段と言えます。
作中での使用例と表現
ゲンリー・アイがゲセン語を学び、理解しようとする過程で、多くの翻訳の困難や文化的な誤解が生じます。特に代名詞の扱いは常に問題となります。
例えば、ゲンリーがゲセン人を指して「彼は〜」と表現することに対し、ゲセン人は違和感を覚えるか、あるいは彼らの言葉に存在しない概念であるため、その表現自体を理解しにくい場合があります。彼らにとっては、「あの人」や「その者」というジェンダーを含まない表現が自然なのです。
また、「ケメル」に関する語彙の使用例は、彼らの生理的状態を描写するだけでなく、その時期に発露する感情や行動について語る際に頻繁に登場します。詩や物語の多くは、ケメル期の体験やシフの関係を主題としています。
「ケメル」と「レムペン」の使い分けは、コミュニケーションの文脈で重要です。例えば、政治的な交渉の場では「レムペン」的な、建前や儀礼に基づいた遠回しな言い回しが好まれます。一方で、親密な関係や芸術表現では「ケメル」的な、直接的で情動的な言葉が用いられることがあります。
言語学的な位置づけ
『闇の左手』のゲセン語は、現実世界の特定の言語類型に厳密に分類できるほど、その文法や音韻体系が詳細に設定されているわけではありません。作品のテーマに不可欠な要素として、特に代名詞体系と文化的重要語彙に焦点が当てられています。
しかし、ジェンダー代名詞を持たないという点は、現実世界の言語にも見られます(例:フィンランド語、ハンガリー語など、多くの言語が代名詞にジェンダー区分を持ちません)。ゲセン語の特徴は、単にジェンダー代名詞がないということ以上に、その欠如がジェンダーという概念がゲセン社会に存在しないという文化的基盤と深く結びついている点にあります。これは、言語が話者の世界観や社会構造をいかに反映しうるかを示す強力な例と言えます。
文法的な構造(語順、活用など)については作品中で詳細な言及が少ないため、類型論的な位置づけを行うことは困難です。しかし、語彙が特定の文化的概念を濃密に内包している点は、他の架空言語や現実世界の言語にも見られる特徴であり、文化研究の視点からも興味深い対象となります。
まとめ
アーシュラ・K・ル=グウィンの『闇の左手』に描かれるゲセン語は、その詳細な文法規則や音韻体系よりも、ジェンダーが存在しないというゲセン人の特異な文化が言語構造、特に代名詞や語彙にどのように反映されているかという点で極めて重要な役割を果たしています。ジェンダー代名詞の欠如や、「ケメル」「レムペン」といった文化的重要語彙は、単なる言語的な特徴にとどまらず、ゲセン人の思考様式、人間関係、そして彼らの世界の認識そのものを深く掘り下げるための鍵となります。
ゲセン語の探求は、言語が単なるコミュニケーションの道具ではなく、話者の社会構造、価値観、そして最も根源的な存在のあり方と不可分に結びついていることを示唆しています。この視点は、架空言語を創造する上でのインスピレーションとなるだけでなく、私たち自身の言語や文化に対する新たな洞察を与えてくれると言えるでしょう。